IKI-PEDIA
Find out what you need to know about Tokyo Chutei Iki's origins.
プロローグ
▼1本目のバリトンサックス。
1988年*(要検証)、パーカッショニスト、オルガニスト、ギタリスト等、サポート・ミュージシャン稼業に勤しんでいた私*(と書くか水谷と書くか域長と書くか)に、とあるアーティストの公演後、熱心なオーディエンスからクラリネットの差し入れ=プレゼントが届いた。恐れを知らぬ若き私はちょっと練習しただけで、そのクラリネットを仕事で使い始めてしまったが、決められたフレーズを吹くだけならば然程難しくはないと感じていた。
1992年、私はシンガー・ソング・ライターとしてメジャー・デビューなるものを果たしたものの、1994年には最短の2年で契約を終了されてしまう。が、当時少しずつ勢いをつけ始めていたインディーズ・レーベルてふものを我もしてみんと1997年*(要検証)デザイナーの友人とともに『EQUIVOCAL RECORDS』を設立。ソロの他にもtricomi feat.戸川純の作品などを製作発表し、そこそこに面白いレーベルとなった。後にも記すが『真鍮レコード』設立前の東京中低域の1st『明星』と『真鍮レコード』休眠後の最新作『GREAT BARITONNIA』は訳あって『EQUIVOCAL RECORDS』からリリースしている。
1993年、予てから交流のあった劇団『時々自動』が「東京ムラムラ」というイベントに出演した際、私も誘われて客演、そのパフォーマンスの中でテナーを持たされ、ただただフリーキーな音を出すだけではあったが、初めてのサックス体験を果たした。また、劇団主宰の朝比奈尚行さんが吹いていたバリトンサックスの音とヴィジュアルに魅かれ「サックスならバリトンだな」とバリトンサックス愛が芽生えたのもこの時であった。
1994年、ラジオ番組「ガール・ポップ・スラッシュ」< https://ja.wikipedia.org/wiki/GiRL_POP_SLASH >のテーマ音楽を担当したご縁で番組にもゲスト出演、その際交流を深めたパーソナリティーの笹野みちるさんのツアー公演を見に名古屋へ。旅のついでに立ち寄った大須の巨大なリサイクルショップでバリトンサックスを発見。心惹かれつつ帰京したものの、やっぱり欲しくなって東名高速を飛ばして名古屋に戻り目出度く購入、それが現在まで使い続けているヤマハYBSである。後年、松本健一さんの仲介でC.G.コンのショートベル(1929年製)を入手するも左手小指系のキーがあまりにも遠く重かったため使用を断念、ステージではほぼ使わず終い。2008年の海外ツアー後にバンドの赤字を埋めるため泣く泣く手放した。
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▼東京中低域、結成というか集結というか
メジャーレーベル解雇後は主にCM音楽やドラマの劇伴などの作曲に明け暮れる私であったが、ベーシストの渡辺等さんを誘ってのライブシリーズ『カルク・ヒトイーキ』も断続的に行っていた。マルチ弦楽器プレイヤーの渡辺等さんにはベースのみならずチェロをお願いする機会も多く、自然な流れとして「バリトンサックスとチェロ」という中低域デュオのスタイルが出来上がっていく。やがて多忙な渡辺さんに代わり、ビートニクスで共演を果たしていたサックス・プレイヤーの矢口浩康さんにサポートをお願いするに至り「バリトンサックスとバリトンサックス」という中低域デュオ、後に東京中低域という大樹に育つ種子の発見に到達したのであった。「バリトンサックスとバリトンサックス」の演奏を重ねるうちに「これは面白いからカルテットにしよう」なんて盛り上がりはしたものの、そうそうバリトンサックス・プレイヤーに出会うチャンスもなく中々実現には至らず、企画倒れに潰えそうになった或る年の或る日*(要検証:おそらく1999年後中頃)、友人の紹介で『渋さ知らズ』の吉田隆一さんに会いに行き、バリサク・カルテット計画を話したところ「やりましょう!」のお返事、そしておそらく同じ友人の紹介で後関好宏さんの参加も決まり、そこに松本健一さん、田中邦和さん、鬼頭哲さんが加わった7人編成で初ライブを行ったのが、2000年1月29日、南青山マンダラであったと。*(要検証)
▼東京中低域という名称の由来。
1992年のビートニクスに誘っていただいて以来(実をいうと80年代後半サポートマン時代にも何度かお会いしていたが)、主に海水浴旅行とサッカーで交流を深めていたムーンライダースの鈴木慶一さんの「バス・サックスがあるからバリトンは低域じゃなくて中低域だよね、英語で言うとミッド・ロー・フリークエンシーか、かっこいいよ」のご意見を受け「東京中低域」に決定。当初「東京中低域会」に決まりかけたものの、「中」が真ん中に来た方が文字ヅラの座りが良いという私の我儘な意見で「東京中低域」にしてしまった。そんな所以で英語表記も当初「Tokyo Mid-Lo Frequency Band Limit」にしていた。ネイティブ・スピーカーに聞くと「Limitは要らない」とのことだったが、「Tokyo Mid-Lo Frequency Band」だと「周波数帯域」の帯域を意味する「Band」が楽団を意味する所謂“バンド”のように見えてしまうのがなんとなく嫌で、私は「バンド・リミット」という表記に固執していた。が、そんなこだわりも最初のうちだけで、英語表記も2010年のツアーあたりから正式に「Tokyo Chutei Iki」に統一され、ロンドンを始めとする海外の関係者の間ではイニシャルの「TCI」の略称で表記されることも多い。
2000年~2002年あたりを暫定的だが「第1期の前期」と名付けておこうか
▼1st「明星」(2000年)、2nd「東中」(2001年)、3rd「インザマス」(2002年)の3枚のオリジナル・アルバムを発表した他にも「火の玉ボーイ」(2002年)「はっぴいえんど・かばあぼっくす」(2002年)というカヴァーアルバムにも関わっている。これらのアルバムの録音状況については別項の赤川新一くんのインタヴューをご参照頂きたい。この頃、東京中低域は渋谷の野中楽器店(アクティ)の練習室を拠点にしており、リハーサルが終わるごとにライブハウス『Eggman』の上階にあったカフェ・ラ・ボエムでコーヒーを飲みながらミーティングをしていた。リハやライブのスケジュール調整からメンバーの加入や脱退の相談もほぼ全てラ・ボエムで話し合われた。今から思えば信じられないことに野郎ばかりノン・アルコールでぺちゃくちゃやっていたのである。
<全然関係ないけど、大学1年~2年にかけて、名古屋二期会のオペラの演出助手や舞台監督助手(TV業界でいうところのADね)をやっていた。(ちょっとその道に進もうかなんて考えもしていたのだが、同じ頃高校時代の悪友に誘われて結局ロックバンド活動に引き戻された)で、そうした仕事のひとつ、例えば、プッチーニの『ラ・ボエム』の舞台監督助手を担当したおかげで、私は全幕全キャストの歌を覚えた。覚えないとできない仕事だった。かなり忘れたけど当時は全部そらで歌えた。バルトークやヒンデミットばかり聴いていたのでは身につかなかった、判りやすい、ザ・クラシックっていう節回しを無理矢理にでも注ぎ込まれたのは、後々東京中低域の曲を書くとなったときにも役に立っていると思う。つくづく人生には無駄が無いものだ。この話は『ラ・ボエム』で思い出したのだけどね。>
▼第1期まではステージ上で当たり前のように譜面を見て吹いていた。私はそのことに結成当初から不満を持っていた。10人ほどのアンサンブルなので演奏を作り上げていくのに譜面は欠かせない。が、それはリハーサルの時に完成している。デビュー当時、観客が50人も入ればいっぱいになる小さなライブハウスが東京中低域の主戦場だった。当然ステージも狭い。ちょっと動くと隣のプレイヤーの楽器にぶつかる、目線が譜面に釘付けになるので観客は放置される、楽器も衣装もよく見えない、そう、簡単言うと見栄えが良くない。私はしきりに「例えばさあ、ローリング・ストーンズが譜面見てたら冷めるじゃん、譜面やめようよ」的な言い回しで主張し続けたが、全員に相手にされなかった。いや、相手にされないなんていう生易しい否定ではなかった。ステージで譜面を見るのをやめる、即ち暗譜しなければならない、そりゃ嫌がるよね。覚えるのが面倒臭い、つまり当時のメンバーはそこまで東京中低域を本気でやっていなかったのだ。そこで私は「まちがわなさ」という譜面を見て吹くのが馬鹿馬鹿しくなるような、徹底的に反復する曲を書いてみた。全員が譜面を離れて動くことができた。実に楽しい。楽しいことにはヒトは積極的になる。メンバーが客席を歩き回り、吹きながらライブハウスの外まで行ってしまうメンバー(鈴木広志である)もいた。そこでメンバーが後々問題となる“悪ふざけ”を始めたのだが、幾分かの行き過ぎはあったにしろ、このことが人懐っこいお茶目な東京中低域へと体質(というか人柄)が変化したきっかけではあった。
500人くらいの規模のホールだったらPAシステムのお世話にならなくても良いほど充実した音量を持った東京中低域である。バリトンサックスはギターアンプ付きのエレキギターのような楽器なのだ。立ち位置やベルの方向で舞台上で定位が自在に変えられるという面白さもある。譜面を見ずに吹く、ある意味当たり前の状態にしただけなのだが、東京中低域は自由に動く“足”やその場にいる人々と見つめ合う“目”を取り戻した。いつまで譜面に頼っていたか定かではないが、少なくとも2006年の初のロンドン公演の時に譜面は一掃された。というか譜面の一掃にロンドン公演を口実にしたような気もする。この時も「例えばストーンズがさあ…」って蒸し返して。
2003年~2005年あたりを暫定的だが「第1期の後期」と名付けておこうか
▼制作面ではmaxi single『トーキョーチューテーイキ』のみを発表しただけの3年間であったかもしれない。2003年、2004年はアルバムの制作を控え、ひたすらライブを重ねていた。そうすることでバンドの居所を探していた。私は結成当初から「我々はジャズじゃない、ロックバンドである」と言い続けていたが、世間の認識も、実際にやっている音楽も「ややアートの匂いのするジャズっぽい実験音楽」のような、つかみ所のないもので、先の私の主張はどのように言い張ろうとやはり空疎なものであった。2005年、私が一人でプロモーターやBBCと交渉するためにロンドンを訪れた際、なんとか東京中低域を売り出そうと尽力してくれていたアンディ・ウォーレン氏からの「アキラの気持ちは判るけどオルタナティヴ・ジャズだと言った方が世間の認識と一致するよ」というアドヴァイスに従い、私も漸くジャズにカテゴライズされることにまかせた。そうすることで確かに英欧のクラブやフェスティバル、そして音楽をとりまくメディアも東京中低域をぐっと扱い易くなり、結果として後年の活動が広がりを遂げた。前々年から徐々にエアプレイの回数が増えていたBBCとの交渉に成功し、ジャズフェスへの出演とそのライブ収録と放送が決まった。アンディ・カーショウ氏に加え、チャーリー・ギレット氏も東京中低域を非常に気に入り、彼の手によって編集されたコンピレーション・アルバムへも収録された。ロンドン侵攻の準備は整った。
<2005年、初めての渡英で私はいきなりBBC Radio3のDJアンディ・カーショウ氏と会うことができた。東京中低域の海外進出、というか現在まで我々が活動を続けてこられた最大の功労者、イツコ・ウォーレン(以後イツコさん)さんと彼女のご主人であるザ・モノクローム・セットのアンディ・ウォーレンさんの友人、イラストレーターのサイモンが地元のパブでカーショウ氏と知り合い、何かの流れで東京中低域のCDを渡してくれていた。そのCDがBBCの中でコピーされ、DJからDJ、ディレクターからディレクターの手に渡っていったようで、Radio3の中で東京中低域をエアプレイすることがちょっとしたブームになっていたようだ。その話を聞いた私は一大決心、まず何をしたかというと、英会話の勉強を始めたのだ。これまたもうひとりの東京中低域継続の最大の功労者、鈴木慶一氏に紹介して頂いた英会話の先生、ルイス・ディ・アンドレード氏(実は彼も元ミュージシャンでネイティヴ・サンというバンドのドラマーであった)のプライベート・レッスンに足繁く通った。最初に教わったのが「お金を借りるときの英語」であったのがいかにもミュージシャン同士のレッスンだったなと。ルイスのもとに半年ほど通った頃(*要検証)、満を持しての初渡英は2005年の10月ごろだったか(*要検証)、台風が近づいて来ていたのでフライトを1日前倒ししたが、ホテルまでは変更できなかったので、初日はウォーレン宅に一泊させて頂いた。今思えば(その時も思ったのだけど)私のこの図々しさ、何かをやろうと思った時に「思い切り人の好意に甘える」というのは大人としては失格だが、東京中低域のバンマスとしては必要なバッド・ハビットではあろう。なんて自分で言っちゃいけないが。この初渡英でもウォーレン夫妻は私の滞在中は仕事をべったり休んで幾つものクラブやCDショップ、管楽器を扱っている楽器店など毎日一緒に回ってくれた。なのでモーレツ英会話レッスンの成果を発揮する間もなく、非常に実り多き売り込み行脚を終えられてしまったのだった。
帰国後もロンドンとのコンタクトは途絶えることなく、BBCradio3のDJであり音楽評論家のチャーリー・ギレット氏からは彼の編むワールドミュージック系のコンピレーション・アルバムに我々の曲を収録したいという打診も受け取った。メールの文面からも彼の素敵な人柄は伝わってきて、ふた回りくらい歳は離れていたけれど、いつしか何でも相談できる“メル友”になれた。チャーリーからBBCのプロデューサー、イアン・チェンバース氏を紹介され、ぐっとロンドン公演が現実に近いものになった。が、機が熟すの待とうとするイアンに対して、機を逃したくない私にとって、亀の歩みのメールのやりとりだけではあまりにももどかしく、早々に再びの売り込み渡英を決めた。が、2005年末、私は体調を崩し緊急入院、1月いっぱいまで動けなくなってしまった。(入院当初は三ヶ月は出られないとの話であったが一ヶ月で退院となった)その後、2006年7月(要検証)に再々度バンド売り込みの渡英を計画&決行、「来てもらっても会えるかどうか判らないよ」とミーティングを渋るイアンに突然ヒースロー空港から「今ロンドンなんだけど今日会えるかい」と電話をかけ、そのままBBCに押しかけて、その場でBBCラジオでのライブ収録を決めることができた。若かったなあ、大胆だったなあ、私。イアンは「BBCのスタジオで録音するだけではなく、EFGロンドン・ジャズ・フェスティバルに出れば、BBCからのギャラとクラブからのギャラが両方もらえるよ」と助言をしてくれて、その場でBBCとともにフェスを主催しているシリアスという会社のデヴィッド・ジョーンズ氏を紹介してくれた。2回目の売り込み渡英は初日にして、しかも到着して最短距離で望みのほとんどを手に入れることができたわけだ。
今回の宿は夏季休講中のロンドン大学の学生寮でロイヤル・アルバート・ホールの目と鼻の先だった。前回のパディントンの安ホテルよりも安く、清潔で朝食も美味しく、どこへいくにもアクセスが良かった。
翌日(要検証)イツコさんとともにシリアスのデヴィッドに会いに行った。こんな私の相手をしてくれるわけだから、デヴィッドは数多いるスタッフのワン・オブ・ゼムなんだろうな、くらいのつもりで訪問してみたら、なんとこのシリアスというでっかい会社のCEOの一人で中2階のガラスばりのオフィスに一人で陣取っていた。ちょっと話をしただけで、これまたその場でピッツァ・オン・ザ・パークというジャズクラブに電話をかけ、週末の2日間、ワンマンでの出演を決めてくれた。すみずみまでは聞き取れなかったけど「日本のとても有名なバンドだ」みたいな話をしていた。電話を切って「これでいいかい?」みたいなことを聞いくるので、イツコさんの方をみると「なんか凄いのが決まっちゃったみたい」って驚き顔で言う。一息おいてデヴィッドの方に向き直った私は「オッケー、サンキュー」的なことを言ったと思う。できる限り平静を装って。で、話を終えて辞去しようとする私に向かってデヴィッドが「ところでアキラ、観光はしたかい?」と尋ねてきた。「ぜんぜん」と答えると近くにあったメモ用紙にサラサラと美術館や博物館の名前を書いて「少しは楽しめ」と。よっぽど必死に見えたんだろうな。まあ、必死でした。シリアスの門を出るなりイツコさんと小躍りしたことは言うまでもない。私の人生の中でも、東京中低域の歴史の中でも最も画期的な48時間であった。
2006年~2009年あたりを暫定的だが「第2期の前期」と名付けておこうか
▼2006年、前年末に体調を崩した私は1ヶ月の入院生活を強いられた(前項参照)。退院早々、昨年のうちにレコーディングを済ませていた4枚目のアルバム「十一種」をリリースさせ、名古屋京都大阪へレコ発ツアーを行った。決まっていた上半期のスケージュールを終えるや否や、私は再び渡英し、精力的に音楽関係者を訪ね、11月のEFGロンドン・ジャズ・フェスティバルへの出演とそのライブ収録と放送が決まった。立ち消えるかと思われたロンドン侵攻計画は復活、準備は整った。
11月、様々な不安を抱えながら東京中低域はロンドン・ヒースロー空港に降り立った。日本を発つまでは「あっちじゃ無名だし、お客さんいないかも知んないけど頑張ろうね」なんて話していたのだが、蓋を開けてみれば当時レイズジャズを仕切っていたポール・ペイスとシリアスのデヴィッド、そしてBBCのイアンとチャーリーによるプロモーションが行き届いていたので、演奏会場はどこもいっぱい、反応も上々であった。フェスティバルのレギュレーションで演奏会場内でのビデオ撮影が禁じられていたが、デヴィッドの計らいでイーストエンドのセント・ジョン・オン・ベスナルグリーン教会での演奏と撮影が許可された。その模様は『Live in London~radio*club*store*church*~』というDVDにまとめられ、翌年に発売された。(ヒースロー到着のシーンは今でも見るたびに胸がキュンとなる。)映像作家の鈴木拓洋と西村大、ツアーマネージャーとして本田薫と新井清元も同行、14人。この時の渡航費用は水谷が拠出したが、BBCとシリアスのおかげでその二分の一程はギャランティで回収が出来た。海外進出への突破口が開いたことを思えば、安い出費であった。
<2006年、東京中低域初訪問のロンドンの宿はピカデリー・サーカスの今はなき老舗ホテルリッツ(*だっけ要検証)だった。各ヴェニューへのアクセスを考えて選んだ宿ではあったが「いくらなんでもこれはないだろう」というほど老朽化の激しいホテルだった。案の定、数年後には潰れてしまった。
正直いうと現在に至るまでこんなに海外で活動ができると思っていなかった私は一生に一度かもしれないロンドン・ツアーの模様を隅々まで映像として記録しておこうと考え、高校時代のバンド仲間であった映像作家・鈴木拓洋氏とその同僚の同じく映像作家・西村大氏に帯同願っていた。到着の翌日、我々はまずグリーンパーク~バッキンガム宮殿に出かけアルバム『十一種』に収められていた『レイン』のPVを撮影することにした。その後に続くコンサートの模様も全て収録してDVDにして発売し、旅費の回収に充てようという目論見もあったが、まあそれはうまくはいかなかった。ただ15年を経てみると、二十代の鈴木広志や東涼太の初々しい姿を今もこうして再生することができるのだ、もちろん私だって今より十五歳若かったわけで、作っておいて良かったとつくづく思っている。
フリー・コンサートを行った大型書店フォイルズの中にカフェを兼ねたお洒落なCDショップ『レイズ・ジャズ・アット・フォイルズ』を仕切っていたのがジャズ・プロモーターのポール・ペイス氏だった。彼はスパイス・オブ・ライフやロニー・スコッツ・ジャズ・クラブのブッキング・マネージャーも務めていて、今日に至るまで我々の渡英の際は必ず公演を仕切ってもらっている。そして本公演である週末のピッツァ・オン・ザ・パーク(ロンドンにはダイアナ妃も行きつけだったピッツァ・エクスプレスというクラブもある。イタリアン・レストランがジャズ・クラブも兼ねていることが多いのかな)の2デイズ。現場でのリハーサル前だったか、シリアスのデヴィッドが「ハウスはフルだ」とドヤ顔で告げに来た。すぐにはピンと来なかったけどイツコさんにソールド・アウトのことだと教えられ、私も負けずにボヤ顔で「ザッツグードゥ」と返したものだった。ピッツァ・オン・ザ・パークは真っ白なテーブルクロスの上に磨き上げられたカトラリーが列をなしているような、ちょっと高級なジャズ・クラブ=レストランであった。150席だったかな、見事に満席、出来過ぎの初公演だった。メールで「脚を悪くしているから行けないかもしれない」と知らせてくれていたチャーリー・ギレットが駆けつけて来てくれていて、私は終演後で自分が汗まみれなのも忘れ、気づけば仕立ての良さそうなスーツ姿の彼を思わずハグしてしまっていた。すぐさま迷惑かなと気づいたけど、いや、ハグしておいて良かった。また時間のある時にゆっくり会おうを約束したが、その約束の叶わぬまま彼は天国に行ってしまった。
ベスナル・グリーン教会はイアンが紹介してくれた。今では再開発が進み若いアーティストたちが活躍する街となったベスナル・グリーンだが、当時はちょっと荒れていたようだ。上のクラスの白人たちはあまり行きたがらないような街だという人もいた。ま、我々はカラードであるし、上級でもないし、何も気にせず演奏に出かけた。今はデザイン集団トマトのプロデューサーになっている中野雄日氏と初めてあったのもこの教会だった。彼はセンチメンタル・シティ・ロマンスの中野督夫氏の息子さんで当時は音楽活動をしていた。築200年(*だっけか要検証)以上経っているというチャペルの修復を進めていてその資金が欲しいと神父のアラン・グリーンは言っていた。我々も喉から手が出るほど売り上げが欲しかったが、ここでもアンディが「教会では有料コンサートをするものではない」と私を優しく諭してくれて、うむ、納得したのだった。(ほんとは一悶着、私が駄々をこねてウォーレン夫妻を困らせてしまった経緯があった。人生における大反省の思い出ではある)その次も、その次もロンドンに行くたびに演奏をし、教会は修復を終えたようだ。いろんなことが起きるロンドン・ツアーだが、これこそはなによりの幸せである。
*この項、いずれ前項と順序を入れ替えたい。
<結成当時は「赤坂グラフィティ」を中心にライブ展開をしていたが、徐々に「西麻布スーパーデラックス」~「公園通りクラシックス(渋谷)」~「初台ドアーズ」と拠点を西へ西へと移動させていた。そして2006年、これよりしばらくホームグラウンドとなる「下北沢440」に辿り着いた。このようなヴェニューの変遷は東京中低域の音楽やファッションの変化とシンクロしてないかな、だんだん垢抜けして脱力もして、非常にリラックスした方向に流れてきているんじゃないかな。(西へ西へと、そしてとうとうロンドンへ、ね。)
初めてのロンドンに発つ前日(11/8)、のちに東京中低域のヘッドコピーとなるフレーズ「程良き低さと自慢の人数」をタイトルにした壮行会的なライブを開催したのが下北沢440だった。私はその日に至るまで数ヶ月にわたってほぼ毎夜、英国時間でファックスや電話をかけなければならなかった。心労と慢性睡眠不足でフラフラ、声もろくにでない状態でステージに立っていた。ファーストセットの途中だったかな、気が遠くなってパタンと倒れてしまった。背中から後方に倒れたのは無意識に楽器をかばっていたんだろう。そのまま楽屋に引っ込み、誰かが買ってきてくれた酸素ボンベを吸入してセカンドセットからステージに戻った。終演後、本田薫と新井清元を車に乗っけて成田空港近くのホテルへ直行、確かすごく早い便を予約しちゃってたんじゃないかな、緊張もしていたし、何もかも手探りで段取りの悪い旅立ちだった。ロンドンに到着後、私の体調不良はノドに来てしまい、ステージで何曲か歌ものを演奏したがまったく酷いものだったと思う。この大失態の反省から、私は独自のパーソナル・ワイヤレス・イヤー・モニター・システムを考案、大音響の中での歌唱の負担を軽減しつつ舞台上からフロアモニターを撤去、アクティング・エリアの拡大を得た>
▼2007年、前年のロンドン・ツアーの成功に勢いを得た東京中低域はファーストDVD『Live in London ~radhio*club*store*church*~』を携えて、国内を精力的にツアーした。またデヴィッドの紹介で南アフリカのジャズ・フェスティバル(*なんていうフェスだっけ要検証)から招聘を受けたが予算の折り合いがつかず断念した。日本の服飾ブランド、tao comme dés garconsのデザイナー栗原たお氏から、2008年の春夏コレクションの音楽の作曲を依頼された私は「いまボクの書いているもので一番面白いのは東京中低域です」と、それを東京中低域の仕事として引き受けた。(実際そうであると思っていたし、この頃の私はCMだろうと劇伴だろうと可能な限り東京中低域として引き受けることにしていた。)域員を招集し超特急で録音&ミックスを済ませ、音源を収めたラップトップとオーディオ・インターフェイスを担いで単身パリへ、tao comme dés garcons 2008年春夏コレクションのショーのBGMとしてライブDJプレイ。その音源をマスタリングして2008年に5thアルバム『パリコレ』として発表。東京中低域のなかでは最もアブストラクトなアルバムである。
<栗原たおさんと出会うより前に私たちは彼女のご両親である栗原駿さん・はるこさんと交流を持っていた。栗原ご夫妻は『cafe cafe market』というアンティーク・ショップを営んでおられ、2006年、東京中低域が初めてのロンドンに発つ成田空港で、同じくこれからロンドンにアンティークの発掘・買い付けに行くというご夫妻を、予てから親交のあった鈴木広志が紹介してくれた。ご夫妻は買い付けの合間を縫ってベスナルグリーンにコンサートを見にきて下さり、帰国後はなんと河口湖ステラシアターでのコンサートを企画開催してしまうなど、我々の活動を支える大切な域友となってくださった。
たおさんからお引き受けした音楽は書き上がり録音も済み納品するばかりであったのだが、それがどのように使われるのか見届けたいという気持ちが強くなり、私も音源とともにパリに同行して現場で音を流させてもらうことにした。コレクションには非常に優れた舞台監督がいて私も招かれて音楽についても入念な打ち合わせを積んではいたが、作り上げた音楽が非常にアブストラクトなものであったため、やはり私が頭出しをしたり複数のトラックのバランスをとりながら流した方が良いという判断でパリ行きを決めたのだ。三泊四日(*要検証)の弾丸出張、コムデギャルソンの計らいでガルニエ宮近くのホテルを用意していただいたものの、思いのほか自由に動ける時間はなく、もともと観光下手な私は現場に顔を出す以外はずっと部屋にこもってデータをいじるばかりだった。唯一観光らしいことといえば、地下鉄に乗ってサクレクール寺院まで行き、丘の上から「エッフェル塔はどこだ、あれが凱旋門か」なんて、地図を見るのと変わらないことをしただけだった。寺院の脇のカフェで食べたブラウニーとカフェオレが最もパリらしい思い出かな。あとはホテルの朝食と近所のスターバックス、現場の仕出しの鯖味噌弁当(美味しかった)、本番後にたおさんに連れて行って頂いた韓国料理、それが私のパリ。いや、ジャン・ポール・エヴァンのチョコも食べたし、ピエール・エルメのマカロンもたおさんにご馳走になった。それが私のパリ、ある意味パーフェクトだ。たおさんのショーの翌日(*要検証)、川久保玲さんのショーに連れて行っていただき、帰りはぶらぶらとセーヌ川に架かった橋を渡って帰った。景色はだだっ広くてのんびりしていた。パリだったなあ。>